昭和46年10月10日 特別奉修員
最近、私が段々おかげを頂いていきよることの信心の中に、黙って治めるという、いわゆるさんずい辺に無口と言うね、これがあの段々ほんとなものになって、きつつあると言う事、大変自分ながら有り難いと思う。それが何故かというと、あの成程言わんで、治めること、というか、言わんほうが返って本当に治まっておる、事実がそこにあるからですよ。それがもしないなら、やはり言わにゃというふうになりますからね。
だから金光様の信心はどこまでも、そこんところに体験が伴うていかなければ、ひとつのことを行じていくというても、やはりあの行じきれませんですね。先ほどある方のお届け中にもありましたように、ほんとに、そら一口ちょっと言うとかにゃな、と言う様な事もありますけれども、例えばあの自分の土地を、あの土地堺の所を境を打たれるのに、一度ならずもその二度までも、またこの前もその自分所が立ち会うというのに立ち会わんなりに、ちゃんとしてあったと。
今度も又そうしてあったと。しかもその人が村で有名な、その悪党ばっかりやってきとるのですから、やはりあの言わなければ馬鹿らしいし、また言うとかなければまた相手の人も、いよいよめぐりにめぐりを積んでいきなさる、様な感じですから、これはやはり言うておくがほんとのように思いますよね。したらそんなことを言われましたら、神様から「けい」という字を頂くんですね。
土二つしてみるとやっぱり、そのまあ例えば私共の過去の信心、まあ言わんで済むおかげを頂いておるけども、ここは一口言わなければ、相手がおかげを落とす、と言った様な、いわゆるそれはやっぱ人情ですけどね、そう思うわけです。けれどもやはり神情ということになると、やっぱ言わんで済むわけなんですね、しかもどうしたずるい人じゃろうか、というのじゃなくてですね、ほんとにこれでは相手がやっぱ、助からない、やっぱりまためぐりを積む、だから言うとかなければならん。
というのは人情であって、言わずにその、祈れるところがもう神心、今朝から頂くご理解と合わせて頂いてみて、もうほんとにね、あの言わんで治まっていくならこげん素晴らしいことはないですよ。だからね、昨日から頂いておりいます、合楽の信心が、青年期から壮年期に育っていかなきゃならん、という、やはりここ言わんで済むようになってきたということ、やっぱ、壮年期に少し足がかかって来よるなと自分で思う。
今朝からですね、それがハッキリしませんでしたけれど、今朝のご理解でもあの、壮年期になって行くということが、例えば成り行きを大事にするとか、御事柄と言う事を、例えば青年期の時代に、徹底、教えられて来たわけです、出来る出来ないは別として、ここ二十年間、そのことを頂いてきたわけなんです。ですからあのそれにもうひとつ、その心に花を、というのでしたね。
というその両面がなからなきゃいけない。しかもその域に入るというのは、その一言だけじゃないと言う事を、今日朝のご祈念にひとつとやというあの、数え歌でずうっと頂いたんです。ななつとやというとこまでイタダイトッタんです。だからそのまだいくらもあるわけですけど、私それをはっきり、言う事ができませんけども。その中にいわゆる、黙って治めると言う事も、これは大人の信心が少し大人になった証拠だという風に思うんですよ。だから皆さんもやはり、あのそういう線に沿うて出来る。
出来んは別として、そんなら御事柄として頂くと言った様なことでも分かっておる、けれども、まだほんとに自分のものにはなっていない、のですけどね。けどもそれは、まだ習ったもの、なったものとして次の信心になって、一緒にまた稽古していかなければいけないわけなんですけれど、ほんとにあの黙って治める、今の井上さんの場合なんかは、ここはほんとに親切を持って、相手に言おうもう心ん中ではもう御事柄として頂く、井上さんがそう言とられるですよね。
けれども、口ではやはり言うとかにゃいくまいと。これはやはりその人情ですね、素晴らしい人情なんです、悪い人情ではない、素晴らしい人情なんです。また信心の過程においては素晴らしいことです。けどももう合楽の場合は、ここんところもね、それもこんどは言わずに今度は祈っていくという信心がね、今求められておる訳ですね、それが出来るようになったら素晴らしい事だと思いますね。ほんとに黙って治まっていくという、こげな有り難いことはないです。そこには稽古していかなければいけません。
どうぞ。